”大河ドラマ“のような「踊りのお師匠さん」のお話

坂東会が100周年を迎えました

坂東会創立100周年の記念書籍が発刊されて、私の手元にも、先月届きました。

「坂東会」というのは、坂東流の名取が集まる組織です。100年前というと1921年、大正10年。「あれ?坂東流って江戸時代からあるんじゃないんですか?」と言われそうですが…

はい、坂東流の流祖は、江戸の安永~天保年間(1775~1831年)に生きた三世坂東三津五郎です。ハンサムでかっこよく、芝居も踊りもうまい。踊りは新作を次々に発表して好評をはくし、市井にも彼を師と仰ぐ多くの弟子達がいて、その「坂東」の名前をもらった弟子達が、坂東流の源流となりました。

では100年というのは? 紛らわしいですが「坂東流」でなく「坂東会」なんです。坂東会というのは、坂東流のお師匠さん達が、七代目三津五郎を家元に迎えて坂東流を組織し、その後「坂東流舞踊研究会」を設立して舞踊会を開催した、それが1921年だったのですね。

七代目三津五郎(明治15年~昭和36年 1882年~1961年)は、六代目菊五郎と並び称され、「踊りの神様」とまで言われた名人です。

ここでちょっと強調したいのですが、普通は、家元がトップダウンでお師匠さん達を統率するという図式が思い浮かびます。しかし、坂東流では、「お師匠さん達」が主語、つまりボトムアップであったということです。

そのお師匠さん達こそ、江戸きっての人気役者・三世三津五郎の弟子から身を立て、「踊りのお師匠さん」を生業にしたり、実力のある人は大名の奥向きなどに歌舞伎の演目・所作事を教える「お狂言師」として活躍した女性芸人さん達です。

中には、四世以降の三津五郎を上回るほどの実力を持つ方もいらしたようで、独立独歩というか、「一国一城のあるじ」的な矜持を持った方々の集まりだったようです。

例えば、「四代目三津五郎は生粋の江戸っ子で、喧嘩っ早かった。それ故に問題を起こしたのであろう。古参の女師匠連にお灸を据えられている……32名の女師匠が連判状に署名捺印して、絶縁状を突きつけた」(本書p17 古井戸秀夫氏執筆)というエピソードもあるほどです。

また、幕末に役者だった六代目が、明治6年(1873年)、28歳の若さで亡くなると、明治39年(1906年)に七代目が襲名するまでの33年間、「三津五郎」不在の時期がありました。この33年の間、坂東流を率いていたのも、元「お狂言師」で実力ナンバーワンの「お師匠さん」でした(後述する坂東三津江)。

明治39年七代目が襲名したとき、お師匠さん達は、33年ぶりにやっと自分達の頂点に立つ「三津五郎」が生まれた!という喜びに満ちあふれたと思います。お師匠さんたちが続々と参集し、七代目を家元に迎え、「坂東流」が組織されました。

世の中は、明治維新を経て、日本社会は西欧列強と肩を並べるべく西洋化し、日本舞踊も怒濤のような時代の荒波をかぶっていたでしょう。

レベルは全然違いますが、一時期、対面のお稽古ができなくなり、舞台が中止や延期となった現代のコロナ禍とも、比べてしまいます。お師匠さん達が一致団結した気持ちが分かる気がします。

江戸~明治~大正と99歳まで生きた坂東三津江さん

さて件のスーパーお師匠さんこと「坂東三津江」さんは、文政4年(1821年)に生まれ、大正8年(1919年)に亡くなっています。文化文政期から明治~大正を生きて、亡くなったのはなんと99歳です。

今年の大河ドラマ「晴天を衝け」の渋沢栄一は、天保11年(1840年)に生まれ、昭和6年(1931年)に亡くなっていますから、渋沢栄一より20年くらい前を生きています。激動の幕末・明治維新を生き抜き、100年近く生きた人ですから、まさに、大河ドラマのような方です。

三津江さんは、写真が残っています(『初心忘れず』p59)。これを見て、おぉ~っと唸りました。100歳近くまで生きられたのもうなずけます。まるで男性のようにどっしりした、風格のある立ち姿です。

なかでも一番ドラマチックなエピソードは、明治40年ごろ、七代目に三代目の娘道成寺の振りを教えたというものです。そのとき、三津江さんは80代後半でした。

三代目三津五郎の道成寺の振りを七代目に移した

日本舞踊では、お師匠さんが弟子と一緒に踊って,弟子がお師匠さんの振り付けを真似ながら覚えていくことを「振りを移す」といいます。師匠の体から弟子の体に、まさに「移す」わけですね。

明治40年ごろ、七代目を継いだばかりの三津五郎(20代後半!)に、三津江(80代後半!)は、三代目の娘道成寺の振りを移したのです。

そのドラマは次のようなものでした。

七代目が、三津江に呼ばれて自宅に行くと、三津江は障子を立て切って、こう言われたそうです。

「さて、若旦那、これは坂東流になかった踊り(注1)ですが、三代目さんからわたしが譲られた永木の道成寺があります(注2)。わたしももういくら生きるものではありませんから、それを今のうちに若旦那におうつし申します」(都新聞 昭和7年12月1日。早稲田大学演劇博物館『三代目坂東三津五郎展』の資料、児玉竜一氏執筆。注は私)。

注1:もともと初演は1753年初代中村富十郎なので、坂東にはなかったという意味

注2:「永木(えいき)の」とは「永木の三津五郎」といわれた「三代目三津五郎の」という意味。娘道成寺は、初代富十郎→初代三津五郎→三代目三津五郎と伝わった

お稽古は、2カ月をかけて行われました。障子を立て切って二人きりでというのは、「私が家元さんに教えているところを他人に見られちゃいけません」ということだそうですが、その心持ちは現代に生きる私達にもひしひしと伝わってきます。

このエピソードを初めて知ったとき、それまで七代目以降のイメージしかなかった坂東流が、文化文政期からの二百数十年バーーンとリアルにつながった感じがしました。

もう一つ面白いのは、坂東流には「娘道成寺」の秘伝書があったということです。

初代富十郎の振りを三代目が書きとめた巻物の秘伝書だったそうで、これも三津江さんが七代目に渡しました。そして、家のお蔵に大事にしまってあったものを、好奇心旺盛な子供だった八代目が、こっそりすべて読んでしまったとか。その秘伝書には「実子といえども、もし芸が拙い場合は、読んではいけない」と書いてあったので、八代目は「大変なものを読んでしまった」と思い、父七代目に黙っていたそうです。

この秘伝書は、関東大震災のときに焼けてしまいました。

何年かして、その秘伝書にしか書いてないことを、八代目がお弟子さんに教えていたのを、いぶかしがった七代目がたずねると、「すみません。実は、読みました」と白状した、と。それを聞いた七代目は、実物が消失していたので、「読んでおいてよかった」ということになったそうです。

初代豊国による三代目三津五郎・道成寺の錦絵(早稲田大学演劇博物館『三代目坂東三津五郎展』資料の裏表紙から)

娘道成寺には、坂東流独自の型があるのです!

七代目は『七世三津五郎 舞踊講話』のなかで、「三津江の踊った『道成寺』を見ましたが、その振りののんどりと、おおまかなこと、今の『道成寺』に比べると、はるかに古風な、いい味わいのあるものでありました」と書かれています。

「娘道成寺」といえば、18代目勘三郎さんが当たり役にして何度も踊り、玉三郎さんや名女形の人しか踊らない「女形の集大成」、現代でも最もよく知られた演目の一つです。

坂東流独自の道成寺は、平成20年(2008年)、十代目が満を持して、歌舞伎座の本興行で踊られました。そのときの苦労や工夫--三代目から伝わる古風な道成寺を現代の人にいかに見せるかという苦労や工夫について、十代目さんは著書『坂東三津五郎、踊りの愉しみ』(2010年、岩波書店)で詳しく、分かりやすく書かれています。

一番の違いは、出の「道行」が義太夫でなく常磐津であるということ。歌詞は同じなのですが、常磐津なのです。私が2008年に観た感想は、我が流派ながら「常磐津は地味だな~」と思ってしまいました(・・;)。

主人公は「白拍子」ということになっていますが、振り付けは、男を知った白拍子というより、あくまでも「娘」であるという解釈でなりたっていることや、衣装にもいくつか違いがあるそうです

坂東流の講習会では、こういうことも学ぶことができます。(だからといって、この通りにやらなければいけない、ということではありません)。

貴重な江戸時代の衣装や芝居本を、博物館に寄贈

さて、坂東三津江さんに戻ります。お母さんが水戸藩上屋敷の小姓で、坂東三津江を名乗っていました。お母さんが亡くなった後に、三津江を名乗るようになった二代目さんということになります。10歳のときに、三代目三津五郎が亡くなっています。

「幼いときから、徳川家斉の側室お美代の方の三女・末姫の踊り、お遊びの相手として大奥への出入りが始まったといわれている。その後、お美代の方の長女の嫁ぎ先である加賀前田家、末姫の嫁ぎ先である安芸浅野家のほか、細川家、鍋島家などのお屋敷に出入りし、明治5年までお狂言師として仕えた」(『初心忘れず』p57)

お狂言師とは、能狂言の狂言師という今の意味とは違い、大奥や大名の奥向きで、歌舞伎や踊りを見せたり教えたりする職業のことです。徳川家のみならずこれだけの大名家に出入りしていたということは、その芸の実力のみならず素晴らしい人格者であったことが分かります。

大奥や大名屋敷では、本物の歌舞伎さながらの舞台、地方(じかた)、衣装をそろえて、上演会が行われていたそうです。三津江さんは、道成寺で使われた衣装を、東京国立博物館に寄贈されました。「奢侈を厳しく戒められた芝居の歌舞伎衣装とは異なり、大奥や大名家の庇護のもと調整されたため、素材といいデザインといい、この上なく贅をこらしたものである」(早稲田大学演劇博物館『三代目坂東三津五郎展』資料p56~57には、その写真も掲載されています)

「明治維新を迎えると三津江の運命も大きく変わる。明治3年、イギリスの第二皇子アルフレッド殿下が来日すると、三津江は、政府の要請によって『寿曽我対面』の工藤祐経に分して狂言を演じ……(中略)明治6年には、東京市から『踊業仕様牒』を取得し、まちの踊り師匠・坂東三津江として多くの弟子を育てることとなる』(『初心忘れず』p 58)

大河ドラマでは幕末と明治維新は何度も取り上げられていますから、三津江さんにとっても、きっといくつもの大きな試練やドラマがあり、どのような決断をされたのだろう?と想像してしまいます。

私達坂東流には、何となく、古風な、というか、江戸時代そのままの素朴な踊りや、振りが多いなぁと感じるのですが、こうしたお師匠さん達が律儀に守り伝えてきたおかげなのだと、つくづく思いました。

(100周年記念書籍『初心忘れず』は、3000円+消費税で、坂東会から販売されています。http://www.bando-ryu.jp/)

(来年9月17~18日には、コロナ禍で2年延期された坂東会100周年記念舞踊会が国立大劇場で開催されます)


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