「下手の横好き」とは私のことです。ここから先は、上手な方は読まないでください。しかし、下手であると自覚している人、下手から脱却しようともがいている人、あるいは教えている弟子がなかなか上達しないのでなぜなのか模索している、という皆さまには、もしかしたら参考になるかもしれません。(「長く曲がりくねった道」とは、ビートルズ最後のヒット曲“The Long and Winding Road”の訳です)
ビデオの自分の踊りを見てガックリ
「日本舞踊を20年以上お稽古しているというのに、ちっとも“それなり”感がない。自分の踊りをビデオに撮ってみると、一番の基本ともいえる首のフリが汚くて、ガックリきてしまう。要するに基本がなってないし、むしろ悪い癖が身についていると言った方がいいかもしれない。しかし、それは踊っていても自覚がある。何となくしっくりこないのだ」
これは恥ずかしながら、私の約10年前の日記にあった文章です。20年もやってこんだけ?このとき私は確かに絶望していました。
私が不器用なせいもありますが、日本舞踊は、上達が本当にイバラの道です。(これを言うと、「やりたい」という人が減ってしまうのであまり口にしないようにしていますが)。
特に、自分としては気持ちよく(上手だと思って)踊っていたのに、ビデオに映して見てみたらガッカリというのはよくあることです。
下手と自覚したとき、上達の道は半ば~私のもがき
仕事でおつきあいのあった、ある精神科の先生はこうおっしゃってくださいました。
「下手だと自覚したら、もう上達の道は半分以上進んでいますよ。自覚してない人は、上達しようがないじゃないですか!」と。
そこから私の「もがき」が始まりました。
お稽古(練習)は裏切らない!ひたすらお稽古あるのみ
「名人」と言われたながら早くに亡くなった十代目お家元(坂東三津五郎)の告別式で、息子である当代家元が挨拶した言葉は、坂東流の人々にとって忘れられないものとなりました。
父の芸というのは、誰にでもできるような小さな努力を、誰にも真似できないほど膨大な数積み重ねた先にある一つの究極の形だったのではないかと思います。
坂東巳之助(2015年2月25日)
この言葉はいつも心にあります。凡庸なるわれわれは、なかなかできないフリを身につけようと何度も何度も練習して、「よし、身についた」と思っても、師匠の前で踊ってみて「それ、違うよ」と言われた途端めげてしまう。情けないものです。
一人でお稽古すると自己流になって、変な癖がついてしまう難しさもあるとのこと。一人で自主稽古する場合は、フリの順序を覚えるだけにするのがいい、師匠の見ている前で、集中して踊るのが一番、と言われても、「不器用なんだから、予習復習するしかないでしょ」と始終ジタバタしています。
舞台に出る、人前で踊る
人前で踊るというのは、やっぱり上手に見られたいから無我夢中で努力します。やっぱり踊りは人にみられてなんぼなのですね。
余談ですが、日本舞踊をやっている人は私も含めて「見栄っ張りさん」が多いのではないかと思います。師匠からは「誰に対して見栄張って張ってるの?自分に対して見栄張んなさい!」と言われます。
人に教える
名取りになれば、人に教えることができるようになるのですが、人に教えるためには、自分がきちんと消化していなければ教えられません。しかも身体でフリを移す稽古は、悪い癖さえもが移ってしまいます。それでは教えられた人がかわいそうです。よって、教える人は少しでも上手に踊れるように努力せざるを得ません 。
見るお稽古
上手な人の踊りを見る――あこがれ、「こういうふうになりたい」というイメージを自分につくることは良いことです。すごく上手な人を見てあこがれるだけでなく、ちょっと上の人を見て「あぁ私もこのくらい踊れたら!」と穴の開くほど見てしまったり。そして、まだ未熟な方々の踊りも見させていただき、他山の石とさせていただくことも勉強です。
鏡のお稽古、動画(ビデオ)のお稽古
私は昔気質の師匠に習っていた時期も長かったため、「鏡を見る稽古」はいけないものだと、ずっと思っていました。
鏡稽古について、十代目家元は著書『坂東三津五郎 踊りの愉しみ』』の中で、「坂東流では禁止です」と書かれています。井上流のお家元、井上八千代さんも、「鏡は使わない」とおっしゃっています。(鷲田清一『折々のことば』(朝日新聞2016年12月22日)。
こんなスゴイ方々がいけないものだとおっしゃっているのだから、やっぱり鏡はいけないのだ、と思っていました。
十代目はこう書かれています。
なぜいけないといわれたのか、正直いってよくわかりません。(中略)鏡という要素が入ると、頭で考えてしまって、身体そのものがおぼえなくなってしまうのだと思います
『坂東三津五郎 踊りの愉しみ』p.9
同時に、「演じながら客観的に見てチェックする自分が、演じるときに邪魔になる」という理由から、ビデオも見ないようにしている」とも、書かれています。
それゆえ、私はビデオや動画を使ったお稽古は必要最小限にとどめ、積極的にするものではないと思っていましたが、ある方に「三乃智さん、今どき何を言ってるの?昔とは違う!」と呆れられてしまいました。
昔は毎日のようにお稽古があって、踊る機会、見る機会もたくさんあり、自然と踊りが身につく環境だった、そんな時代ならともかく…と。その方は、スマホによる動画撮影を、積極的に取り入れている方でした。
そこへきて、コロナがやってきました。緊急事態宣言の間、坂東流は「対面でのお稽古は自粛」となりました。どうしたらいいか?師匠と私は、ビデオカメラで1~2カ月分のフリを録画し、外出制限のある間、家で自主稽古をするという方策をとりました。これがなかなか良かったのです。
動画は何回も再生して見ることができますから。「なんで早く覚えないの!」と師匠に叱咤されながらなかなか進まない私にとっては、かえってお稽古がサクサクと進んだほどでした。(むろん、師匠の最終チェックは欠かせません)
これからの日本舞踊は、基本の繰り返しを取り入れていくことも必要かもしれません。(中略)たとえば、おすべりならおすべりを徹底的に百回ずつやるとか(中略)目はこっちで首はここだという基本形を教え込む稽古をするのであれば、鏡があったほうがわかりやすいと思います。
『坂東三津五郎 踊りの愉しみ』p.10
自分の癖や下手さ加減を自覚し、そこから上達への試行錯誤をはじめるためにも、鏡や動画のビデオは必要と、今は考えます。 自分で踊っている感覚と、人から見てどのくらいに見えているのか、という感覚が一致しないのは、とても苦しいものです。
日本舞踊の基本とは何か?の追求
ここでいう基本とは、お稽古の最初で習う、立ち方・座り方、お辞儀の仕方のことではなく、フリ(所作)の基本です。
例えば、「右へ歩くときには右足から、左に歩くときには左足から」 「おすべりは左足から」 「首は、足を出した逆の方向から振る(ねじり込みのときは逆)」等々。長くお稽古をしていると、こういう基本が身体で分かってくるので、所作から所作へスムーズに動くようになっていきます。
実は日本舞踊には、バレエの「パ」(pas)ような基本練習がないのが特徴です。日本舞踊では、初心者は簡単な踊りから習うわけですが、最初から曲を踊るという応用問題から入るわけです。応用から基本を身体で知っていくのが日本舞踊なので、お師匠さんたちはその基本をどう教えるかに工夫を凝らされていると思います。(先の十代目の本の引用も、そのことを表しています)
私が10年前、「自分の踊りは基本がなってない」と自覚したとき、日本舞踊の基本って何だろう?というのが、大命題になりました。このフリの下手さ加減とこのフリの下手さ加減は、腰の使い方が間違っているからではないか?それでは、腰の使い方の基本って何だろう?
師匠から「それは、身体を全然使っていない!」と叱咤されるとき、それでは、どういうふうに身体を使えば日本舞踊の基本にかなっているのか?
こうした悩みに答えてくれたのが、花柳千代さんの『日本舞踊の基礎』という本とDVDでした。先生は、日本舞踊の無数にある動作から、基本となるものを抽出して言語化し、体系的に整理する、しかも基本練習を作るという、誰もやらなかったことをされているのです。これはスゴイことだと思いました。
日本舞踊の基礎については、また別の機会に書いてまいります。
最後までお読みいただきありがとうございます。
日本舞踊やってみたい!と思われた方は、ぜひ無料体験レッスンにお越しください。