「日本舞踊と歌舞伎の違い」を掘り下げてみました

初心者からの素朴な質問

これまで日本舞踊をまったくやったことがない、とか、ゆかたも着たことがない、という初心者の人に、手ほどきをすることはとてもうれしく、楽しいことです。その方から思いもかけない質問をもらったとき、私自身も新鮮な刺激をいただきます。

長い間やってきたがゆえに当たり前と思っていたことを、初心者の人から「なぜ?」とぶつけられたとき、相手の人が納得できるよう答えようと思えば、いろいろと考えざるをえません。

そんな初心者の人の質問に、次のようなものがありました。

「歌舞伎と日本舞踊の違いは何ですか?男の人が踊るのが歌舞伎で、女の人が踊るのが日本舞踊ですか?」

私は思わず、「う~~ん」と唸りました。「違うわよ!」と言って、正解を伝えることは、簡単です。しかし、彼女がどうしてそのように誤解したのか?を考えてみようと思いました。それは、一般の人が持つ日本舞踊に対するイメージでもあるからです。

さて、正解では

日本舞踊=A(歌舞伎舞踊)+B(歌舞伎舞踊以外の舞踊)

なのですが、日本舞踊を知らない人から見ると

日本舞踊 ≓ 歌舞伎舞踊

あるいは、限りなく

日本舞踊=歌舞伎舞踊

かもしれません。

例えば、日本舞踊の代表的な演目である「娘道成寺」や「藤娘」。これを歌舞伎興行で役者さんが踊れば、日本舞踊と呼ぶことはなく、「歌舞伎舞踊」と呼んでいます。しかし、同じ役者さんが「踊りの会」で踊るときには、同じ歌舞伎舞踊を踊っても、「日本舞踊」と呼ぶことが多いですね。

同じ演目を、同じ演者が踊って、歌舞伎舞踊と呼ぶときもあれば、日本舞踊と呼ぶときもある不思議。

もう少し突っ込んで、私の属する坂東流のお家元(流派のトップ)は、代々の坂東三津五郎(2015年に十世三津五郎が亡くなり、現在は坂東巳之助)という歌舞伎役者です。

歌舞伎役者がイコール日本舞踊の家元でもある、ということも、この世界の中にいる人間には当たり前のことでも、外の人から見ればよく分からないかもしれません。

私が長年抱いていた疑問

子どものときに日本舞踊に接し、20年の中断を経て、大人になって会社員をしながら趣味として踊りを嗜んできた私自身、「日本舞踊ってどうしてこうなっているのだろう?」と疑問に思いながらも、当たり前のこととしてやりすごしてきたことがあります。

疑問その1

「日本舞踊の演目は、歌舞伎舞踊が多いのはなぜ?」

(歌舞伎舞踊の演目は時間が長い。短くて15分~20分、30分以上のものもあります。発表会に「見に来て」と友達を誘って、退屈せずに見てもらえるか?曲の意味が分からなくても最後まで楽しんでもらえるか?悩みます(・・;)

また、教える身になって、「日本舞踊をやりませんか?」と誘うときにも、「振り付けを覚えるのが大変」と言われ敬遠される。その意味での敷居も高い(・・;)

 

疑問その2

「舞台(発表会)があると関係者にご祝儀を配るのはなぜ?舞台費用を踊る人が全額負担するのはなぜ?」

(日本舞踊はお金がかかる、というイメージを払拭できない(・・;)

 

疑問その3

「日本舞踊の演目には、吉原など廓(くるわ)に由来するものが多いのはなぜ?」

(曲や歌詞の意味を説明するのに、男女平等・人権尊重の今の時代、抵抗が生じてしまう。実際、そこは深く追求しないで説明しますが(・・;)

初心者の方の疑問に始まって、長年私自身が持ってきた素朴な疑問に、真正面から答えてくれる本が見つかりました。

小山観翁著『古典芸能の基礎知識』。初版は1983年。今となっては絶版で、古本でしか手に入りません。小山観翁さんは、1929年生まれ。歌舞伎座のイヤホンガイド創始者だそうで、2015年に亡くなられています。

『古典芸能の基礎知識』は、能楽、歌舞伎、人形浄瑠璃、日本舞踊、邦楽の5つのジャンルについて書かれています。5つの中で能楽が一番歴史は古いですが、能楽は歌舞伎・人形浄瑠璃の源流であり、歌舞伎・人形浄瑠璃は日本舞踊のもととなり、邦楽は歌舞伎、人形浄瑠璃、日本舞踊のバックグラウンド音楽という関係で、全ジャンルが密接に関係しているものです。

小山観翁さんは、これら古典芸能にものすごく造詣の深い人でありながら、現代社会において古典芸能に接したことのない素人が必ず感じる疑問点を、その素人目線で分かるように、歯に衣きせず書かれているのです。私自身も目からウロコがボロボロ落ちる本でした。

(以下は、小山さんの本の受け売りと、私自身の知識・解釈も加えて書きます)

江戸後期に日本舞踊が盛んだった切実な社会ニーズ

小山さんいわく

「今日から見れば、時代おくれに見える邦楽や日本舞踊にも、江戸時代にはそれなりの切実な需要があったのである」

江戸幕府は諸国の大名を支配するため、江戸と領地の間で参勤交代を強いていたのは、誰もが知っている事実です。江戸屋敷には、大名の奥方がいて、大名は1年ごとに行き来しなければなりませんでした。

大名の奥方は外に出ることも禁じられて、ものすごく退屈をしていました。江戸の中期~後期、歌舞伎は当時の最も人気のある芸能であり、歌舞伎役者は大スター。奥方や奥女中は、世間で評判になっている歌舞伎、人気の大スターがどんなものか、興味しんしんで、何としても知りたいと思ったに違いありません。

そのため、外の人が大名屋敷に呼ばれました。男子禁制ですから、女性です。あまり知られていませんが、この頃「お狂言師」と呼ばれる職業の女性芸人たちがいて、大名家の奥向きに呼ばれて歌舞伎舞踊を見せていたそうです。

「お狂言師」は、当時人気のあった歌舞伎役者の門弟となってその芸をならい、一門の名前を名乗ることを許されたり、稽古所を構えたりしていました。大名屋敷にあがる以外にも、町人に教えたりして、「お師匠さん」と呼ばれていました。そう、それが今日の「日本舞踊のお師匠さん」という職業のご先祖さまなのですね。

江戸時代も末期になってくると、大名よりも商人の方が経済的に優位に立ってきます。お金はあるけれど身分が低い町人は、名誉と権勢を求め、自分の娘を大名屋敷勤めに送り込もうとします。

そのために、町人は娘をお師匠さんのもとに通わせて、芸を身につけさせたわけです。その芸が、人気の歌舞伎舞踊であれば、武家の奥方に大層おぼえめでたい。つまり、良い就職先に恵まれ、お手つきとなって側室となれば、町人は外戚として出世する。娘に歌舞伎舞踊を習わせるというのは、町人が富と名誉を求めてのし上がるという、社会的ニーズがあったというわけです。

「江戸時代には、芸事、特におどりを習うことは、富と繁栄の象徴として受け止められたから、娘の芸の出来ばえは、ただちに親の名誉や信用につながる一大事とされた」

こうした内容は、小山観翁さんによる一つの仮説ではありますが、「なるほど」と思いましたし、それが200年たった今日に至るまでその影響を受けているというのは、驚きでもありました。

「親たちは「お浚い」(おさらい・発表会のこと)ともなれば、引き立つようにしてもらうために、師匠への付け届けはもとより、衣装屋、鬘屋、顔師(メイク係)、大道具、小道具、後見などの人々へも、謝礼金の他に別封を包むなど、涙ぐましい努力をつくすのであった。「ご祝儀」というのは、そうした祝い事の前景気の意味であろう…明治以降、今日に至る舞踊会の慣習は、そうした江戸期における「生産性を伴う投資行為」の実体が見失われたのにもかかわらず、いぜんとして残存し、一種の「虚礼」「不文律」化しているのが特徴である」

ここで、私の疑問のその1とその2の謎が解けました。その3については、改めていつか書きたいと思います。

日本舞踊が現代に生き残る意味

「時代おくれ」。バッサリと書かれる小山さんの指摘は厳しいですが、こうも書かれています。

「「古典芸能」という言葉の中に、懐古趣味しか見いだせない人は不幸である。能、歌舞伎、文楽。これらは単なる過去の遺物ではなく、現代が見失った何かを示唆してくれる指標である。歴史という名の急流は、後世に必要なもの以外を洗い落とす。だから、今日残っている伝統芸能は、他でもなり日本の歴史が選んだものなのだ」

それでは、日本舞踊の現代における存在意義は何でしょうか?小山さんはこうもおっしゃっています。

「日本舞踊という芸は、江戸時代そのままの「稽古屋」さんスタイルが、著しい変化もなく、今日まで続いたことで、文化財的存在価値がある」

つまり、歌舞伎は舞台芸術であり、興行であるのに対し、日本舞踊は、稽古業、すなわち人に教え・習うことが本業であるというのです。

だから、日本舞踊の舞台(発表会)を通じてその人の踊りを見るというのは、「芸そのものを観る」というより、「芸を通して、その人柄を観る」ことが、日本舞踊発祥の原点から考えて正しい、とおっしゃるのです。

日本舞踊の現代に生きる意味を、「日本舞踊を通じて人を育むことができれば」みたいに考えていた私は、「あながち間違っていなかったのかなぁ」と思って、安堵とともに少し嬉しかったです。


最後までお読みいただきありがとうございます。

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