坂東三乃智 日本舞踊教室
坂東三乃智 日本舞踊コラム
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”大河ドラマ“のような「踊りのお師匠さん」のお話
2021.10.01 つながる伝統文化坂東会が100周年を迎えました 坂東会創立100周年の記念書籍が発刊されて、私の手元にも、先月届きました。 「坂東会」というのは、坂東流の名取が集まる組織です。100年前というと1921年、大正10年。「あれ?坂東流って江戸時代からあるんじゃないんですか?」と言われそうですが… はい、坂東流の流祖は、江戸の安永~天保年間(1775~1831年)に生きた三世坂東三津五郎です。ハンサムでかっこよく、芝居も踊りもうまい。踊りは新作を次々に発表して好評をはくし、市井にも彼を師と仰ぐ多くの弟子達がいて、その「坂東」の名前をもらった弟子達が、坂東流の源流となりました。 では100年というのは? 紛らわしいですが「坂東流」でなく「坂東会」なんです。坂東会というのは、坂東流のお師匠さん達が、七代目三津五郎を家元に迎えて坂東流を組織し、その後「坂東流舞踊研究会」を設立して舞踊会を開催した、それが1921年だったのですね。 七代目三津五郎(明治15年~昭和36年 1882年~1961年)は、六代目菊五郎と並び称され、「踊りの神様」とまで言われた名人です。 ここでちょっと強調したいのですが、普通は、家元がトップダウンでお師匠さん達を統率するという図式が思い浮かびます。しかし、坂東流では、「お師匠さん達」が主語、つまりボトムアップであったということです。 そのお師匠さん達こそ、江戸きっての人気役者・三世三津五郎の弟子から身を立て、「踊りのお師匠さん」を生業にしたり、実力のある人は大名の奥向きなどに歌舞伎の演目・所作事を教える「お狂言師」として活躍した女性芸人さん達です。 中には、四世以降の三津五郎を上回るほどの実力を持つ方もいらしたようで、独立独歩というか、「一国一城のあるじ」的な矜持を持った方々の集まりだったようです。 例えば、「四代目三津五郎は生粋の江戸っ子で、喧嘩っ早かった。それ故に問題を起こしたのであろう。古参の女師匠連にお灸を据えられている……32名の女師匠が連判状に署名捺印して、絶縁状を突きつけた」(本書p17 古井戸秀夫氏執筆)というエピソードもあるほどです。 また、幕末に役者だった六代目が、明治6年(1873年)、28歳の若さで亡くなると、明治39年(1906年)に七代目が襲名するまでの33年間、「三津五郎」不在の時期がありました。この33年の間、坂東流を率いていたのも、元「お狂言師」で実力ナンバーワンの「お師匠さん」でした(後述する坂東三津江)。 明治39年七代目が襲名したとき、お師匠さん達は、33年ぶりにやっと自分達の頂点に立つ「三津五郎」が生まれた!という喜びに満ちあふれたと思います。お師匠さんたちが続々と参集し、七代目を家元に迎え、「坂東流」が組織されました。 世の中は、明治維新を経て、日本社会は西欧列強と肩を並べるべく西洋化し、日本舞踊も怒濤のような時代の荒波をかぶっていたでしょう。 レベルは全然違いますが、一時期、対面のお稽古ができなくなり、舞台が中止や延期となった現代のコロナ禍とも、比べてしまいます。お師匠さん達が一致団結した気持ちが分かる気がします。 江戸~明治~大正と99歳まで生きた坂東三津江さん さて件のスーパーお師匠さんこと「坂東三津江」さんは、文政4年(1821年)に生まれ、大正8年(1919年)に亡くなっています。文化文政期から明治~大正を生きて、亡くなったのはなんと99歳です。 今年の大河ドラマ「晴天を衝け」の渋沢栄一は、天保11年(1840年)に生まれ、昭和6年(1931年)に亡くなっていますから、渋沢栄一より20年くらい前を生きています。激動の幕末・明治維新を生き抜き、100年近く生きた人ですから、まさに、大河ドラマのような方です。 三津江さんは、写真が残っています(『初心忘れず』p59)。これを見て、おぉ~っと唸りました。100歳近くまで生きられたのもうなずけます。まるで男性のようにどっしりした、風格のある立ち姿です。 なかでも一番ドラマチックなエピソードは、明治40年ごろ、七代目に三代目の娘道成寺の振りを教えたというものです。そのとき、三津江さんは80代後半でした。 三代目三津五郎の道成寺の振りを七代目に移した 日本舞踊では、お師匠さんが弟子と一緒に踊って,弟子がお師匠さんの振り付けを真似ながら覚えていくことを「振りを移す」といいます。師匠の体から弟子の体に、まさに「移す」わけですね。 明治40年ごろ、七代目を継いだばかりの三津五郎(20代後半!)に、三津江(80代後半!)は、三代目の娘道成寺の振りを移したのです。 そのドラマは次のようなものでした。 七代目が、三津江に呼ばれて自宅に行くと、三津江は障子を立て切って、こう言われたそうです。 「さて、若旦那、これは坂東流になかった踊り(注1)ですが、三代目さんからわたしが譲られた永木の道成寺があります(注2)。わたしももういくら生きるものではありませんから、それを今のうちに若旦那におうつし申します」(都新聞 昭和7年12月1日。早稲田大学演劇博物館『三代目坂東三津五郎展』の資料、児玉竜一氏執筆。注は私)。 注1:もともと初演は1753年初代中村富十郎なので、坂東にはなかったという意味 注2:「永木(えいき)の」とは「永木の三津五郎」といわれた「三代目三津五郎の」という意味。娘道成寺は、初代富十郎→初代三津五郎→三代目三津五郎と伝わった お稽古は、2カ月をかけて行われました。障子を立て切って二人きりでというのは、「私が家元さんに教えているところを他人に見られちゃいけません」ということだそうですが、その心持ちは現代に生きる私達にもひしひしと伝わってきます。 このエピソードを初めて知ったとき、それまで七代目以降のイメージしかなかった坂東流が、文化文政期からの二百数十年バーーンとリアルにつながった感じがしました。 もう一つ面白いのは、坂東流には「娘道成寺」の秘伝書があったということです。 初代富十郎の振りを三代目が書きとめた巻物の秘伝書だったそうで、これも三津江さんが七代目に渡しました。そして、家のお蔵に大事にしまってあったものを、好奇心旺盛な子供だった八代目が、こっそりすべて読んでしまったとか。その秘伝書には「実子といえども、もし芸が拙い場合は、読んではいけない」と書いてあったので、八代目は「大変なものを読んでしまった」と思い、父七代目に黙っていたそうです。 この秘伝書は、関東大震災のときに焼けてしまいました。 何年かして、その秘伝書にしか書いてないことを、八代目がお弟子さんに教えていたのを、いぶかしがった七代目がたずねると、「すみません。実は、読みました」と白状した、と。それを聞いた七代目は、実物が消失していたので、「読んでおいてよかった」ということになったそうです。 初代豊国による三代目三津五郎・道成寺の錦絵(早稲田大学演劇博物館『三代目坂東三津五郎展』資料の裏表紙から) 娘道成寺には、坂東流独自の型があるのです! 七代目は『七世三津五郎 舞踊講話』のなかで、「三津江の踊った『道成寺』を見ましたが、その振りののんどりと、おおまかなこと、今の『道成寺』に比べると、はるかに古風な、いい味わいのあるものでありました」と書かれています。 「娘道成寺」といえば、18代目勘三郎さんが当たり役にして何度も踊り、玉三郎さんや名女形の人しか踊らない「女形の集大成」、現代でも最もよく知られた演目の一つです。 坂東流独自の道成寺は、平成20年(2008年)、十代目が満を持して、歌舞伎座の本興行で踊られました。そのときの苦労や工夫--三代目から伝わる古風な道成寺を現代の人にいかに見せるかという苦労や工夫について、十代目さんは著書『坂東三津五郎、踊りの愉しみ』(2010年、岩波書店)で詳しく、分かりやすく書かれています。 一番の違いは、出の「道行」が義太夫でなく常磐津であるということ。歌詞は同じなのですが、常磐津なのです。私が2008年に観た感想は、我が流派ながら「常磐津は地味だな~」と思ってしまいました(・・;)。 主人公は「白拍子」ということになっていますが、振り付けは、男を知った白拍子というより、あくまでも「娘」であるという解釈でなりたっていることや、衣装にもいくつか違いがあるそうです 坂東流の講習会では、こういうことも学ぶことができます。(だからといって、この通りにやらなければいけない、ということではありません)。 貴重な江戸時代の衣装や芝居本を、博物館に寄贈 さて、坂東三津江さんに戻ります。お母さんが水戸藩上屋敷の小姓で、坂東三津江を名乗っていました。お母さんが亡くなった後に、三津江を名乗るようになった二代目さんということになります。10歳のときに、三代目三津五郎が亡くなっています。 「幼いときから、徳川家斉の側室お美代の方の三女・末姫の踊り、お遊びの相手として大奥への出入りが始まったといわれている。その後、お美代の方の長女の嫁ぎ先である加賀前田家、末姫の嫁ぎ先である安芸浅野家のほか、細川家、鍋島家などのお屋敷に出入りし、明治5年までお狂言師として仕えた」(『初心忘れず』p57) お狂言師とは、能狂言の狂言師という今の意味とは違い、大奥や大名の奥向きで、歌舞伎や踊りを見せたり教えたりする職業のことです。徳川家のみならずこれだけの大名家に出入りしていたということは、その芸の実力のみならず素晴らしい人格者であったことが分かります。 大奥や大名屋敷では、本物の歌舞伎さながらの舞台、地方(じかた)、衣装をそろえて、上演会が行われていたそうです。三津江さんは、道成寺で使われた衣装を、東京国立博物館に寄贈されました。「奢侈を厳しく戒められた芝居の歌舞伎衣装とは異なり、大奥や大名家の庇護のもと調整されたため、素材といいデザインといい、この上なく贅をこらしたものである」(早稲田大学演劇博物館『三代目坂東三津五郎展』資料p56~57には、その写真も掲載されています) 「明治維新を迎えると三津江の運命も大きく変わる。明治3年、イギリスの第二皇子アルフレッド殿下が来日すると、三津江は、政府の要請によって『寿曽我対面』の工藤祐経に分して狂言を演じ……(中略)明治6年には、東京市から『踊業仕様牒』を取得し、まちの踊り師匠・坂東三津江として多くの弟子を育てることとなる』(『初心忘れず』p 58) 大河ドラマでは幕末と明治維新は何度も取り上げられていますから、三津江さんにとっても、きっといくつもの大きな試練やドラマがあり、どのような決断をされたのだろう?と想像してしまいます。 私達坂東流には、何となく、古風な、というか、江戸時代そのままの素朴な踊りや、振りが多いなぁと感じるのですが、こうしたお師匠さん達が律儀に守り伝えてきたおかげなのだと、つくづく思いました。 (100周年記念書籍『初心忘れず』は、3000円+消費税で、坂東会から販売されています。http://www.bando-ryu.jp/) (来年9月17~18日には、コロナ禍で2年延期された坂東会100周年記念舞踊会が国立大劇場で開催されます) 最後までお読みいただきありがとうございます。 日本舞踊やってみたい!と思われた方は、ぜひ無料体験レッスンにお越しください。 >>詳細はこちらをクリック […]
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「繊細さん」(HSP)は日本の古典芸能に取り組むと、その特性が生かせます
2021.02.05 つながる伝統文化前にも書きましたが、私は“繊細さん”とも呼ばれる、HSP(highly sensitive Person)です。HSPとは、例えば、聴覚、嗅覚などが人より敏感である、他人の影響を受けやすい、細かいことにとらわれすぎるなど、敏感すぎる、繊細すぎる人たちのことです。HSPは、1996年、米国の心理学者エイレン・アーロン博士が提唱した概念で、人が先天的に持つ気質のことです。 3歳で日本舞踊と出会い、途中の中断がありながらもなぜだかいまだに続いている私は、HSPという特質が日本舞踊とマッチしていたと思います。今日は、HSPの人が、日本の古典芸能に取り組むと、自分の特性を生かせるというお話を書きます。 HSPって?「弱い」ことを欠点と思いがち HSPの概念が広まったのは、さまざまな本が出版されるようになった今世紀に入ってから。私も、たまたま図書館で、『繊細で生きにくいあなたへ』(テッド・ゼフ著2007年)という本を見つけ、あ、これ私?と導かれるように手に取りました。この本を読んで、若いときからの悩みが「そういうことなんだ」と、すっと腑に落ちました。 日本では、2018年武田友紀さんの『繊細さんの本』の本が大ヒットし、HSPが広く知られるようになりました。「繊細さん」というのは、武田さんの絶妙な命名だと思います。この命名のおかげで、HSPが市民権を得たように思います。 精神科医の長沼睦雄さんは、HSPの性質として、次のようなものをあげています。 1)刺激に敏感に反応する 2)人の影響を受けやすい 3)直感力があり、ひらめきが強い 4)慎重で、自分のペースで行動することを好む 5)内的生活を大事にする 『敏感すぎる自分を好きになれる本』(2016年)より 強い刺激のあるものは、脳で処理しきれず、疲れてグッタリしてしまいます。私の場合、ジェットコースターとかホラー映画とか、まったくダメでした。(最近は、LEDライトの光が目を突き刺すように感じられて、困ることがあります) 世界中のどの社会でも、人口の5人に1人にHSPがいるといわれているので、少数派ではあるのですが、まったく人数が少ないというわけではありません。でもまあ、大抵の人は刺激の強いものを求めて盛り上がったりしますから、子ども時代や若い頃は、皆と一緒に楽しめないというか、何か損したような、「自分は弱い」というふうに欠点とみなしてきたように思います。 HSPの子どもをHSC(highly sensitive child)と呼び、親御さんにとってHSCの子どもを育てづらいという問題意識から、今こういう本が読まれることも多いようです。 振り返ると確かに、私もなかなか扱いづらい子どもだったかも、と思います。自営業で忙しかった両親は放任だったので、結果オーライでした。自分の世界に浸って楽しんでいました。 人生でいろいろ経験を積むと、欠点と思ってきたことも、案外そうでもない、個性なんだからそれを生かせばいいと思えるようになるわけですが、そのことを明確に言ってくれる大人が周りにいないと、HSCや若い人は、なかなか自分を肯定できなくて苦労することもあると思います。 芸術の美しさが生きるエネルギーになる HSC、HSPの人々は、芸術系や、自らの繊細さ細かさを生かせるものを、仕事あるいは趣味として持つと、それがエネルギーになるというか、元気に楽しく生きていけると思います。 自分の経験からいえるのですが、HSPは感じやすいがゆえに、良いもの、美しいものに深く感動してしまうのです(ある意味、とても単純)。良いもの、美しいものから、生きるエネルギーをもらっている、という感じなのです(逆に、悪いもの、汚いものばかりに接しつづけると、人よりダメージを大きく受けるかもしれません)。 だから芸術(アート)系とか、自然(ネイチャー)系のものに強く惹かれます。 私のHSPの資質は、多分に父親から受け継いでいます。父は生活のために商売をしていましたが、商売よりも趣味の人で、山登り、カメラ、クラシック音楽が好きでした。山と写真(齢をとってからは各地の石仏写真を撮っていました)と、クラシック音楽の美しさから生きるエネルギーを得てきたんじゃないかと思います。男としては長生きの89歳。身体はヨタヨタしながらも、ぼけずに自分を保って生きています。 父が撮った石仏の写真(加西市羅漢寺) 私自身、もとの編集者という仕事では、人にインタビューし、記事を書く際、HSP特有の「人に深く共感する」力を大いに活用していたと思います。その人が一番何を言いたいだろう?この問題の本質は何だろう?と深く考えることが、好きでした。そして、そのことを言語化することも、楽しかったのです(もちろんキツイこともありましたが、不思議と頑張れました)。 日本舞踊、いや能・狂言や邦楽でも、茶道でもよいのですが、伝統文化は、何百年もの間伝わってきた、変わらないものがありますよね。その変わらない、人々が捨てずに、大事に大事に伝えてきた普遍的な何かに、惹かれるのではないかと思います。 日本舞踊の場合、長唄、常磐津、清元など江戸時代から続く邦楽の、昭和の名演奏家による音源を、何度も何度も聞きながら踊りの練習をしていますから、かけ合いの間(ま)や、一つの言葉にいくつもの意味が込められている唄などを肌で感じ、身体に染みわたるようなエネルギーをもらっているような気がします。 そして、踊りの身体の使い方から、現代人が忘れてしまった身体の智恵、生活の知恵に応用できることもたくさんあると感じています。 感受性が鋭く深い共感力をもつHSC、HSPの皆さんは、日本の古典の深さ、美しさをとらえる力があり、ご自身の能力を十分に発揮できる分野だと思います。 HSCのお子さんは、その繊細さ、敏感さゆえに生きづらさを抱えるのではないかと心配する親御さんもいらっしゃるかと思いますが、伝統文化の教室では、社会で生きていくのに必要なたしなみも自然と身につけていくことができますので、きっと将来の役に立つと思います。 最後までお読みいただきありがとうございます。 日本舞踊やってみたい!と思われた方は、ぜひ無料体験レッスンにお越しください。 >>詳細はこちらをクリック
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市川市東山魁夷記念館で「日本画と歌舞伎の世界」展3月21日まで
2021.01.17 つながる伝統文化千葉県市川市とゆかりのある画伯 千葉県市川市は、日本画家の東山魁夷が住んでいたところを、小さな美術館にしていて、企画展が開かれます。今、「日本画と歌舞伎の世界」という企画展が開かれていて、緊急事態宣言になる前の昨年末、観にいってきました。 市川市東山魁夷記念館は、京成線の中山駅から15分ほど歩きます。中山駅は、駅前がすぐ法華経寺の参道になっている、趣のあるところです。参道を抜け、境内を通り抜け、さらに住宅街の坂を登りきったところに、記念館はあります。住宅街は道に迷いがちなのですが、道しるべとなる標識がところどころにあるので、迷わないで着くことができます。 記念館の外観です 東山魁夷画伯は、1945年から、亡くなる1999年まで市川市に住んでいらしたそうです。市川市は2005年、この記念館を建てましたが、会館15年を記念して、今回の展示が企画されました。3月21日まで開かれています。 6代目歌右衛門「揚巻」の打ち掛けや歌舞伎座が所有している日本画など 記念館の1階は、画伯の生涯の紹介と、画伯が使った独特の色の絵具など常設展示があります。そして、画伯と6代目歌右衛門との交流を物語る絵(歌右衛門が愛馬を亡くしたとき、歌右衛門を励ますために描いた絵など)があります。 また、歌右衛門をゆかりの中心に、歌舞伎座の緞帳で有名な山口蓬春や、橋本明治といった人たちの作品があり、緞帳の原画や、筋書きの表紙を飾る絵も展示されています。特に、橋本明治氏が、1962年頃、「徳川家康」という歌舞伎のために書いたノート(舞台場面や衣料案などなど)はとても興味深いです。 2階の展示の圧巻は、歌右衛門が「助六」の「揚巻」役でまとった打ち掛け。東山魁夷、山口蓬春、堅山南風の各画伯が描いた打ち掛けが、期間限定で世田谷美術館から移設展示されています。面白かったのは、南風が描いた、「笹に短冊」の打ち掛け。短冊の1枚は白紙なのです。歌右衛門に「好きな句を描きなさい」との意味だったそうですが、6代目は生涯、白紙のままにしたというエピソードが残っています。 2階にはこの他、歌舞伎座や明治座が所有している絵が、会期中、1カ月ごとに展示替えしながら飾られています。私が訪れた12月には、伊東深水の「春宵」(二人の芸者で、一人が一人の耳元にささやいている、思わずうっとりする作品)が展示されていました。その他、片岡珠子「花咲く富士」、前田青邨「景清」、山川秀峰「三番叟」、堂本印象「舞踊」、長谷川昇「京鹿子娘道成寺(6代目歌右衛門)」、同「藤娘(7代目梅幸)」など。 同館の説明資料によると、「花咲く富士」「三番叟」「京鹿子娘道成寺」「藤娘」は3月の会期末まで展示。「景清」「舞踊」は1月いっぱい展示。私の好きな画家、鏑木清方「さじき」が2月のみ展示、杉山寧の「鯉」が2~3月の展示となっています。 中山の法華経寺を散歩しながらふらりと さて、記念館はこじんまりとした美術館(レストランも併設)で、東京の美術展を見慣れている人には、やや物足りない印象かもしれません。そういう方には、中山駅~法華経寺の参道も含めた一連のお散歩コースで楽しんでいただくのがよいかと思います。隣の船橋市民としては、ちょっと電車で出かけられる身近な地域の、貴重な資源なのです。(しかも、コロナ禍においても、事前のチケット予約の必要なく、ふらっと入れます) ファンの方は多いと思いますが、東山魁夷画伯の絵を見ると、りんとした静けさが心に満ちますよね。私が好きな絵は初期の作品が多くて、山塊を上から俯瞰した「残照」と、馬シリーズの中の「緑響く」です。 「緑響く」は、この記念館のミュージアムショップで買った絵はがき用の額縁に入れて、リビングに飾っています(下の写真)。絵はがきサイズなので白い馬がちょっと小さいんですが、それでも毎日見ていると心洗われます。 最後までお読みいただきありがとうございます。 日本舞踊やってみたい!と思われた方は、ぜひ無料体験レッスンにお越しください。 >>詳細はこちらをクリック