Love!日本舞踊~私がやってきてよかったこと

私自身が、日本舞踊をやってきて「つくづくよかった」と思ったことを、書いてみました。

ひ弱な身体が丈夫になった

どちらかというと神経過敏なのか、消化器系が弱く、ストレスがかかると食べられなくなります。もやしのような体型で、筋力は平均以下。学校時代、体育は苦手でした。

そんな私が病気をすることなく、心身共に丈夫で生きてこられたのは、日本舞踊のおかげもあるかなと思います。

現代社会は パソコン・スマホ等で姿勢が悪くなりがちですが、踊るためには、ともかく姿勢が良くなければなりません。骨盤を立て腰を伸ばし、胸を開く。頭はまっすぐに身体の中心軸をしっかりさせることを意識しています。しかし、油断するとつい猫背に、息も浅くなってしまいます。

私は、日本の伝統芸能や武道等でいわれている、東洋的な身体の使い方にとても惹かれます。

「上虚下実(じょうきょかじつ)」という言葉があるのですが、下半身(足腰、肚)が充実していて上半身の力が抜けているのが良い身体の使い方なのですね。

例えば、「腰を入れる」「お尻の穴を真下に向ける」「肚にフッと力を入れる」「背骨に気を通す」「身体の内側を使う」「手の先まで気を通す」などなど意識するのは、日本の身体文化独特かと思います。

西洋のバレエやダンスが天に向かう動きが多いのに対して、日本舞踊は地へ向かう動きが多いのは、日本が農耕民族だからと、多くの先生方はおっしゃっています。(鶴見和子さんの『おどりは人生』や、花柳千代さんの『日本舞踊の基礎』などなど)。

そして、「時分の花」という年相応の味わいや、「老い」「枯れる」に価値を置くのも日本文化独特なので、一生目標をもってやっていけます。

余談ですが、逆転の発想といいますか、若いときには劣等感だった弱ちょろい身体が、私を守ってくれているのかな?と、今では思うこともあります。

苦しいときを乗り越える楽しみ、心の支えになった

日本舞踊は、たくさんの演目があります。古くは江戸時代につくられたものですが、もっと前の時代の能狂言から題材をもってきたものもあります。歴史が好きな方には面白く、飽きることのない世界が広がっています。

モチーフは、あるときは、源義経を想う静御前。あるときは間男を想う花魁。男を巡って喧嘩する芸者。恋に焦がれる娘etc、etc…。

私ことリアルでは、すでにアラカンオバチャンとなりつつありますが、日本舞踊では、10代の小娘になれる技(わざ)があるのです。

最も大事なことは、雰囲気に浸って踊る、主人公になりきって踊ることだといわれます。師匠からいつも、「もっと、なりきって踊りなさい!」と叱咤されます。踊るスキルが多少つたなくても、雰囲気をつかんでなりきった方が上手に見える、つまり、見る人の心に響くということですね。

そして、この「なりきって踊る」には、踊る人にとっても心の癒やし効果があることに気づきました。

長い人生には、いろいろと困難なことが起こります。社会では暗いニュースや嫌な出来事もいっぱい起こります。

ぐわ~っと落ち込んだり嫌な気持ちになったとき、「日本舞踊なんて」「お稽古する気にならない」が普通です。例えば東日本大震災の後しばらくは、とても踊りのお稽古に行く気がしませんでしたし、新型コロナ渦が始まりつつある頃たまたま劇場に見に行きましたが、まったく楽しめていない自分に愕然としました。

一番のショック時が過ぎても、ずっと非常事態がつづけば心は疲れてしまいます。そんなとき踊りのお稽古で、まったく違う世界に入ると、例えばタイムマシンに乗って江戸時代の人になりきって、しばし「今」を忘れることができる。ほんのひとときであっても、心に回復の猶予を与えることができるようなのです。

これは日本舞踊にかぎらず、誰でも好きなものに没頭する効果といえるかもしれません。

歌や踊りは、いつの時代も私たちを力づけてくれます。人々の口にのぼり、はやり、すたれていく。そんな中で、なぜ日本舞踊は200年も生き残っているんだろう?とも思います。

日本舞踊の演目には、時代を超えた普遍的なテーマが歌われています。男女の色恋にまつわる情はもちろん、親子の情、家族のいさかい、子を失う悲しみ、狂うとは何かetc、etc…。それらが美しい日本語で歌われ、お稽古をしていると、シャワーのように浴びつづける――いつしか、自分の血となり肉となっている気がします。日本舞踊には、そんな効果もあるのかなと考えています。

自分は何者か?揺るがない根っこをもてる

日本舞踊というと、誰でも知っている一番の有名人は、歌舞伎役者の坂東玉三郎さんでしょうか。私は玉三郎さんの美しい所作を拝見すると、幸せな気持ちになります。

歌舞伎や日本舞踊は、日本が世界に誇る伝統芸能。日本舞踊に取り組んでいるということは、海外の人にそれを我がこととして誇ることができます。

いや、別に他人に誇らなくても、私たちの祖先が代々愛し200~300年続いたものをやっているというのは、すごい強みであると思うのです。自分の中にしっかりと根っこがあるというか、揺らがない何かをもっているように感じます。

私の場合、父も母も日本舞踊や邦楽にはまったく縁のない人でしたが、母方の祖父は、お祭り好きの江戸っ子。長唄を嗜んでいました。子供時代、私が日本舞踊を始めたことを喜んでいました。しかし残念なことに、大人になってからは祖父とも疎遠となり、日本舞踊を踊る自分を見せることなく亡くなってしまいました。

10年前のこと。母のつぶやきをきっかけに、祖父だけでなく曾祖父が日本舞踊を嗜んでいたことを知ったのです。しかも同じ坂東流。私が舞台で踊ることになっていた演目(三ツ面子守)を、曾祖父が家でお稽古していたというのです。

「え~知らなかった~!もっと早く言ってよ~」。思わず母に嘆きましたが、そんなものかもしれません。東京大空襲や戦後の大変な時期がありました。曾祖父は私が生まれる5年前に他界し、写真もなく、顔を分かりません。

名前はお墓を見て分かりました。銀蔵さん。お墓参りに行く度に、心の中で銀蔵ひぃおじいちゃんとお話ししている自分がいます。

「ひぃおじいちゃん、『三ツ面子守』難しいよね。ひょっとこの振り、どうやってお稽古したの?」

「ひぃおじいちゃんの時代って、家元は7代目だったよね。やっぱり『踊りの神様』(注:七代目三津五郎は『踊りの神様』といわれていた)の踊りってすごかった?」

なんて、世代を飛び越えて同じ話題で会話できるってスゴイことだなぁと思ったりするのです。

日本舞踊に限りません。日本が近代化・資本主義化する以前からあった、昔から伝わる伝統的な文化なら何でもいいと思うのです。取り組んでみると、自分がそれとつながっているというのが、自己のアイデンティティというか、揺るがない根っこを持てるような気がします。

仕事以外の趣味は、一生の宝物

文武両道といいますか、二刀流といいますか、若かりし頃の私は、仕事の他に何らかの趣味をもっていて実はすごく達人である、みたいな生き方を、「かっこいいなあ」と思っていました。

だから、仕事をしながら、「日本舞踊をやろう」と思いました。

そのときに浮かんだ言葉は「芸は身を助く」。今はお金にならない芸や技でも鍛えておけば、意外なところでも役に立つという意味ですが、30年の私の会社員人生ではどうだったでしょうか?

例えば、私が編集の仕事をしていたとき、取材したり原稿のやりとりをするなどした人の中で、日本の伝統芸能の話で盛り上がり、その後の仕事にも大いに役に立ったということは、それほど多くはありません。

仕事が行き詰まったとき、趣味に逃げて自分の心を保っていたことはありました。「逃げる」ってあまり良い表現ではありませんが、小心者の私には必要なことでした。

意外なところで役に立ったのが、冠婚葬祭等で後輩に頼られたことです。お金をどのくらい包んだらいいのかとか、表書きはどうしたらいいのかとか、相談されました。もちろん私自身もそれほど多くの経験をしているわけではないのですが、伝統文化の世界で厳しめのしきたりを経験していたので、そこから足し算引き算して、「じゃあ、こうしたらいいんじゃない?」みたいな“解”を導き出せる引き出しを人より多く持っている感じがします。

さてここから先が私の持論なのですが、日本の伝統文化のお稽古は、人生を生きる「心と身体」の練習なのではないかと思います。

実社会で仕事や活動し、生きることが応用問題だとすると、お稽古は練習問題を解く場所。練習問題でいっぱい間違えれば、応用問題で間違いが少なくなります。つまり、大事な局面で道を誤らなくてすむようになる、と感じています。

昔の人はそれを知っていたので、何らかの芸の嗜みをもつことを好んでしていたのでしょう。

私の尊敬するフランス文学者にして武道家、かつ能も嗜む内田樹さんはこうおっしゃっています。

「…道場の外に自分の『現実』の生活がある。そこが僕たちにとって真剣勝負の場なわけです。そこで正しくふるまうための心と身体の使い方を道場で身に付ける。生きる知恵と力はどうすれば最大化するか、その課題を自分で考える『実験室』が道場です」(内田樹著『そのうちなんとかなるだろう』2019年)

私の友人は、日本舞踊を「一生物の宝物だね」と言ってくれます。そうだと思います。ここまで読んでくださってありがとうございます。