コロナと伝統文化

素朴な疑問

新型コロナの感染についてのニュースが、またかまびすしくなってきました。

第7派といわれています。

振り返ると2020年2月頃から始まって、2年半を経過しています。

2年半たって、私達の社会はウイルスや病気についていろいろと分かってきたはずでは…と思います。同じことを繰り返していることに疑問を感じているのは私だけでしょうか。

海外のニュースをみると、マスクもしていないし、自粛もしていません。日本はどこの国よりもワクチン摂取率も高く、マスクをしている人の率も高いのに、なぜ感染者が増えているのでしょうか。

私のような一介の、小さな日本舞踊教室を営む人間がなぜこのようなことを書くのかといえば、私の仕事も少なからぬ影響を受けているからです。「職場や家族で陽性者が出た」ということで、休んだりキャンセルしたりする人が出ています。それは、私の教室への影響をおもんばかってのことで、その配慮に感謝しています。

しかし、風邪をひいたりインフルエンザになった人が職場や家族にいたからといって、ご本人が元気でピンピンしているのに、休んだりキャンセルしたりすることはありません。

これは「新型コロナだから」起きていることです。現実的にはもっと大変で、その人の職場でも欠勤者が増えて、仕事に支障をきたして苦労しておられるようですし、スポーツやイベントの興行でも、直前に突然中止になったりするなどの混乱が聞かれます。

できれば、諸外国のように、コロナ前の「通常」に、日本も早く変わって欲しいですね。

今回は「コロナと伝統文化」をテーマに、問題を整理してみることにしました。

私の立場~掘り下げることが好きなので

さて、いわゆるコロナ禍に関しては、なるべく自説を主張することはしないつもりでおります。なぜなら、この問題は現在進行形でもあり賛否両論かまびすしく、その人の価値観が問われる問題になっているからです。極端にいうと、政治と宗教の問題みたいになってしまうからです。

その代わりに、いろいろな考えを提示し、哲学(考え方)の問題として提起してみたいと思うのです。判断は皆さんにゆだねたいと思います。

私がこんな文章を書くのは、前職が医療・福祉のメディアの編集者だったことが大きいと思います。その上、私は若いときから、物事を深く掘り下げて考えるのが好きな“哲学少女”でした。

そのうえで最後に、「コロナと伝統文化」について、つまり私が自らの日本舞踊教室では、コロナに対してどういうスタンスで教室を運営しているか。そしてこの社会の末端で伝統文化を担う人間として、どう考えているかについてはきちんと自説を述べてみたいと思います。

2020年と2021年をクールに振り返ってみる

まず、コロナ禍の2年半を振り返ってみます。(きわめて雑ぱくなものであることをお許しください)

中国・武漢市で最初の患者が出たといわれるのが2019年12月。クルーズ船ダイヤモンドプリンセス号で集団感染が発生したのが翌2020年2月で、日本でコロナ対応のさまざまな対策が始まり、「新しい生活様式」ということが言われ始めたのは、それ以降です。

今でも思い出すのですが、親戚の叔母のお葬式が2020年2月中旬にありました。「お葬式ができてよかった」ギリギリの時期だったと胸をなでおろしました。それ以降、お葬式や、病院・老人ホームでの面会等、大切な人とのお別れさえできなくなっていきました。

スマホのアルバムを見ると、それ以降はマスクをして写っている写真が多くなります。

人と会うのはオンラインになり、当時ZoomやLINEを必死で取り入れました。オンライン飲み会とか、オンライン帰省もやりましたね。

日本は高齢社会。身近にはご高齢の方がたくさんいらっしゃいます。80代の両親。80代のお師匠さん。私には90代のお弟子さんもいます。知らないうちにうつしたら大変。一時は日舞のお稽古が全くできなくなりました。(坂東流では、家元が「対面のお稽古の自粛」を呼びかけました。私はオンライン・レッスンを実験的に試みたりしました。)

当時は、どういうウイルスかよく分かっていなかったことも、大きかったと思います。ネットで必死に情報を集めましたが、このウイルスの一番やっかいなところは、これまでの薬や治療が役に立たないウイルスであると同時に、感染しても無症状のときがあって、知らない間にうつしてしまうことがあるということでした。

しかし、私は思ったのです。人類はこれまでも何度かパンデミックを経験してきました。スペイン風邪、新型インフルエンザ、まして現代は高度に医療も科学も発達しています。

1年くらい我慢すれば元の通りに戻ると思いながら、私達は一生懸命、自粛生活をしたと思います。

2021年は、東京でオリンピックが開催されましたが、開催するかどうかでものすごい賛否両論があったことは、覚えていますか。結果として、「無観客」でも、なんとか開催されて無事終了しましたので、反対意見が多かったことは何となく記憶の彼方に消えてしまいましたね。

デルタ株。新型コロナウイルスは、武漢で発生した最初のアルファ株から変異しました。デルタ株は、アルファ株より広がる力が大きい一方、死亡率も減りました。政府がオリンピックを、ある意味で強行開催したのは、この死亡率の低さを冷静に見ていたからなのかな?とも思いました。

もう一つ、2020年~2021年に話題になったのは、世界に比べて日本人の感染者と死亡者の桁違いの少なさでした。これについては、日本人が民族的にコロナに強いDNAをもっているとか、結核予防BCG接種のおかげで免疫力が強いから、とかいろいろな仮説が言われました。

あと忘れてはならない大きな変化は、ワクチンができたことでした。

医療従事者から先行して始まり、重症化しそうな高齢者が始まったのは、6月からでした。

オリンピックが始まってもまだまだ全国民にゆきわたっていませんでしたし、果たしてデルタ株は8月に大きく増えましたので、やっぱりオリンピックには常に賛否がつきまといました。

感染防止か?オリンピック開催か?その間のバランスをとるといっても、無観客開催とコロナ対策のあやういバランス。

この問題は2022年になっても、感染防止か?経済をまわすか?という間で揺れ動いていて、基本的な構造は変わっていません。

オリンピックが終わって10月頃、デルタ株は大きく収束し、私達は大きく一息つきました。そのとき、多くの専門家は、なぜ減ったのかについていろいろな説を主張していましたが、どれも決定的なものとは思えず、皆が首をかしげて「分からない」と言っていました。

なぜ減ったのかが分からないということは、なぜ増えるかも分からないということです。これでは、また同じことを繰り返すんだろうなぁ、皆が漠然とそんな思いを抱いたと思います。

2021年~2022年のオミクロン株、今回はその亜型のBA.5と、同じことが繰り返されています。

仮説VS仮説

感染症の専門家の先生方が「なぜ収束したのかが分からない」とおっしゃっていた一方、「収束するは当たり前」「増えるのも当たり前」と言っていたのは、ウイルス学の先生方でした。

ウイルスは非常に単純な生物ですから、あっという間に変異します。

自分たちをとにかく増やしたいーーだとすればウイルスは、その人間を殺してしまうより、元気に歩き回って広めてもらう戦略をとるようになります。ですから、最初は武漢型(アルファ株)のように、人にとって致死性の強いウイルスであったとしても、人間を殺さず、病気にもせず、元気に歩き回れるくらいのウイルスが生存競争に勝つようになります。伝染性と強毒性は反比例し、ウイルスは人と共存戦略をとるようになるのです。

よく伝染性が強くてかつ強毒なウイルスに変異したらどうなる?とおっしゃる方もいますが、ウイルスは単純でとにかく自分の子孫を増やしたいだけですから、人間を殺してしまうより、人間を自らの運び屋として利用しようとする方が生き残ると考えるのが自然です。

ウイルスは人間にとって病や死を引き起こす天敵のような面がある反面、人間をはじめとする生物と共存し、生物を進化させる役割もあることも知られています。

私達の体だってウイルスに対して全く無防備なわけではありません。免疫細胞というすぐれた防衛機構をもっていて、常に外部のウイルスにさらされながら、ウイルスと戦い、あるいは協力し合い、新しい免疫機構を作っているのです。

ですからウイルス学の先生方からすれば、ウイルスが減ったのは、ウイルスがすべての人間にいきわたって多くの人が免疫を獲得して駆逐されたか、あるいは次の新たな変異をしたウイルスによって駆逐された、という仮説が成り立つわけです。

もちろんこれはあくまでもウイルス学の立場からの仮説にすぎません。

しかし、今私達が行って感染対策も、感染症学の仮説に基づいているにすぎないのです。

仮説VS仮説。ウイルスは目に見えないわけですから、どっちも仮説にすぎないといえます。科学というのは、常に仮説であり、検証にさらされ、時代を経て変わっていくものだと思います。

とすれば、どちらの仮説を採用するか?という問題になります。

どちらが正しいとか、絶対とかいうことはないと思います。だから、意見の対立が生まれるともいえます。

これは科学というより政治の問題になっていきますね。諸外国では、もうウイルス学の仮説に基づく「ウイズ・コロナ」に舵を切りつつあるのではないでしょうか。

マスコミ報道は、どちらかに偏らず、両方をきちんと伝えたらよいと思います。私は編集者時代、賛成と反対、常に両方を踏まえて報道しなさいと厳しく言われてきました。

経験知VS「エビデンス」

同じことはワクチンについてもいえると思います。

2021年初め、ワクチンがそろそろできそうだと言われていた頃、私の周りの普通のオバサン達が「私達は、実験台だよね」という会話をしていました。

ワクチンや薬、新しい治療法は、年単位の治験、人間の体にどういう影響を及ぼすかという研究を経て、「安全」というお墨付きを得るわけですね。mRNAワクチンは、これまでとはまったく違う製造方法でできているにもかかわらず、特例で治験を行わずに使われ、私達の体はどうなるか、素朴な不安感がありました。

その不安感は、感染や後遺症に対する不安によって一掃され、また、それを後押しするように、感染を○○%予防するとか、重症化を○○%防げるとか、盛んに研究が発表されました。

「自分が感染しないためだけでなく、人にも感染させないために」といわれ、国民の8割以上が2回のワクチンを受けました。

一方、これまでのワクチンと比べて死亡者数が桁違いに多いことは厚生労働省の資料でも明らかにされています。また、多くの医療関係者から、副反応として、血栓、心筋症、免疫不全等が報告されています。

私達は、感染しないためにワクチン接種をするのだと考えていますが、感染はおさまっていません

驚くことに、最近では、ワクチン接種を受けた人の多い国の方が、感染者数が多いという研究データが出はじめています。

また、ワクチン接種を受けた人の方が、新型コロナにかかりやすく、重症になっている、という医療現場の人の声もあります。

コロナワクチンが、人間のもともと持っている免疫を壊しているのではないかという仮説を唱える人もいます。

マスクについても同じようです。

国民のマスク生活も2年半を越え、最近は、マスクが呼吸器に対して悪い影響があることも指摘されるようになりました。特に熱中症対策には、マスクは逆効果。また、小さなお子さんは、人間関係を育む大事な時期に、マスク越しの無表情な顔しか見ていないため、将来にわたる心の成長を懸念される方もいます。

マスクやアルコール消毒で、コロナ以外のウイルスにも暴露しないことで、正常な免疫力が培われず、子供たちは病気にかかりやすく重症化しやすくなった、と指摘される専門家もいます。

新型コロナの前は、マスクは咳の飛沫の拡散防止には役立つけれど、マスクをすることそのものが感染予防にはならないというのが常識でした。ところがいつの間にか、マスクで感染を防止できると、いつでもどこでも皆がマスクをするようになりました。

新型コロナの前には常識であったことが、コロナ後に変わってしまったことはいくつもあると思います。

このことも、仮説(コロナ前の常識)VS仮説(コロナ後の常識)ともいえますが、果たしてどうでしょうか。

コロナ前の常識は、たとえ仮説であったとしても、人類のそれまでの経験知プラス科学による検証の積み重ねの結果(集大成)であったと思います。

コロナ後は、科学的研究によるエビデンス(根拠)という形をとっていますが、あまりにも短期間に結論を出しており、きちんと検証をなされたものなのかどうか、疑問符をもって見ざるを得ません。

エビデンスは未来永劫、エビデンスであるとは限らないからです。

編集者として医療の世界を20年以上見てきましたが、ある時期に定説であったものが、10年くらいたって定説でなくなることは、しょっちゅう起こっているからです。

現在、感染者数といわれているものは、PCR検査で陽性が出た人の数です。ウイルスは目に見えないので、PCR検査をしないと分からないわけですが、PCRで陽性が出たから本当に感染しているのかどうかは分かりません。

陽性であっても、無症状の人はたくさんいます。

感染していても症状が出ないことを、不顕性感染といいます。これは、コロナだけのやっかいな特徴ではなく、インフルエンザでもあることです。

ウイルスを検出する検査がない頃は、症状があって初めて感染したと思われていました。不顕性感染は、インフルエンザのウイルスが分かる検査キットが開発されて、初めてウイルスがいても症状が出ない人がいることが分かったのです。

インフルエンザでも、無症状だったり軽い風邪のような症状でも、検査で陽性となっている人はたくさんいます。この構造は、コロナもインフルエンザも変わらないのです。

不顕性感染は、検査のない時代の基準では、感染ではありません。

昔と今の違いは、検査によって、目に見える形にしているか・していないかの違いだけです。

かつての常識に照らして不顕性感染は感染にしないか、あるいは症状がなくても検査によって感染とするか? 果たしてどちらが正しいでしょうか?

答えは皆さんにゆだねたいと思います。

コロナを問わない

新型コロナの最も深刻な影響は、人々のつながりを切ったことだと思っています。

人々の不安感が高まり、「自分がコロナにかからない」だけでなく「人にもうつさない」ために、人同士のあらゆる集まりができなくなりました。

それだけでなく、差別(人権侵害)が起こりました。

ある地域では、新型コロナにかかった人がその地域に住めなくなり、引っ越しを余儀なくされたという話を聞きました。都会でなく地方で起こったことです。

ワクチン接種をしない人に対しては、SNS等で「感染を広げるのはおまえ達のせいだ」と批判されているようですが、本来打つ、打たないは個人の自由のはずです。

コロナにかかった・かからない、ワクチン接種をする・しない、マスクをする・しない、で、これまでになかった対立と分断が起こりました。

こうした、コロナ対策がもたらした人間の心への弊害に悩んだ私は、2021年秋から、自分の日本舞踊教室の方針を、「コロナを問わない」と決めました。つまり、いろいろな考えがある以上、私が自分の考えを押しつけないことにし、生徒さんの考え方に私自身が合せることにしたのです。

マスクをしたい人はすればいいし、したくない人はしなくていい。

私の教室は、自宅です。もしコロナに感染した人が教室にくれば、ウイルスを持ち込むことになります。ですから、「厳しくした方がいいのでは」といわれたこともあります

しかし、デルタ株オミクロン株は、死者も少ないわけですし、たった1~2時間一緒にお稽古したくらいで発熱したり味覚がなくなってしまうほど、私達の体はヤワなのでしょうか。

きちんとご飯を食べ、睡眠をとり、体を動かし、規則正しい生活をして自らの免疫力を高める努力をする、という当たり前の常識に戻りたいと思います。

少ないウイルスの暴露によって、自然免疫を作った方がいいという専門家もいます。

(もっとも、この猛暑と高い湿度は、体に相当なダメージを与えていることを感じます。やっかいなことに、熱中症とコロナと普通の風邪と、症状は区別がつきにくいようです)

無形の資産を壊さない

2年半というのは、短いようで長い時間でした。返す返すも残念なのは、ひいきにしていた個人営業の飲食店さんが店を閉めてしまったことです。本当に努力されて安くて美味しい料理を提供してくれて、多くの人に支持されていたのに、お店を閉められた例はたくさんあると思います。

日本舞踊の世界では、ご高齢の先生が、お稽古ができなくなり、お体を壊され、お稽古場を閉めるという事態も起きました。

私は、お稽古場が閉まるだけでなく、頑張って美味しい料理を提供していたお店がなくなること自体も、一つの文化の喪失だと思っています。

人と人のつながりや、文化は無形の資産であり、それを金額に換算すれば、1人あたり数千万円、数億円の経済損失にも値すると考えます。

歌舞伎や日本舞踊など伝統文化は、これまでの時代も存亡の危機がありました。大きくは明治維新、第二次大戦の敗戦。そして、この新型コロナのパンデミックも、それほど劇的な変化にはみえませんが、ゆるゆるとした戦争のようなダメージがあったのではないでしょうか。

日本では新型ウイルスそのものによる死者は、少なかったのですが、2021~2022年にかけて超過死亡者数が増えました。コロナ禍の関連死(生活不活発がもたらした疾患による死亡や、孤独・経済苦による自殺、ワクチンによる関連死などを含む)は多いと指摘する専門家の方もいます。

第二次大戦が終わって77年。一つの大きな、時代が変化する節目だったかもしれません。あと20年くらいたった後、後世の人が振り返って、2020年をそんなふうに位置づけるかもしれません。

時代の大きな節目で、伝統文化がなくなっていくのは、ある程度仕方のないと言う方もいらっしゃるでしょう。2020年に日舞の教室を開いた私は、コロナ禍に直面し、新規の生徒さんゼロ、閑古鳥が鳴きました。

ところが、2021年秋くらいから、ホームページを見て、予想外に若い人達が次々に体験レッスンに訪れてくれました。驚くことに、皆さん異口同音に「着物を着たい」「美しい所作を身につけたい」「伝統に触れたい」とおっしゃいます。

そうして、正座もできなかった若い人が、日舞の所作を身につけていったり、着物について全く知識もなく、足袋さえはけなかった若い人が、「着物を着られた」と言って喜び、夢中になっていく様子に、私も大きな喜びを感じました。

若い人だけではありません。中高年の生徒さんたちも、すっかり着物の魅力にとりつかれています。親や祖父母が残しくれた物を、忙しい現代を生きる私たちもいかに工夫して楽しめるかを考え、次の世代に伝えていこうとしています。

定年後にただ日舞の教室を開いただけの人間が、はからずも伝統文化を守るという立場に自らの身を置くことになりました。私はまだ駆け出しにすぎず、本当の勝負はこれからなのですが。今では「あのつらい時期を耐えてよかった」と、心から思います。